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ニーチェの馬

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(原題:A Torinoi lo 2011年/ハンガリー・フランス・スイス・ドイツ合作 154分)
監督/タル・ベーラ 脚本/タル・ベーラ、クラスナホルカイ・ラースロー 撮影/フレッド・ケレメン 音楽/ビーグ・ミハーイ
出演/エリカ・ボーク、ヤーノシュ・デルジ

概要とあらすじ
「ヴェルクマイスター・ハーモニー」「倫敦から来た男」で知られるハンガリーの名匠タル・ベーラが、ドイツの哲学者ニーチェの逸話を題材に荒野に暮らす男とその娘、一頭の馬のたどる運命を描く。1889年、イタリア・トリノ。ムチに打たれ疲弊した馬車馬を目にしたニーチェは馬に駆け寄ると卒倒し、そのまま精神が崩壊してしまう。美しいモノクロームの映像は「倫敦から来た男」も担当した撮影監督フレッド・ケレメンによる。2011年・第61回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員特別賞)を受賞。 (映画.comより)



黒は、あくまで黒く。

——1889年、1月3日のトリノ。
  強情に動こうとしない馬を烈火のごとく鞭で打つ御者。
  それを見たニーチェは馬に駆け寄り、
  泣きながら馬の首を抱きかかえた。
  その後、2日間無言で寝椅子に横たわった後、
  ニーチェはお約束の言葉をつぶやいた。
  「母さん、私は愚かだ」

要約するとこのようなナレーションで始まる
『ニーチェの馬』
タル・ベーラ監督がこのニーチェと馬のエピソードに
インスパイアされて作ったと語っています。
ニーチェが登場するわけではないし、
ニーチェの思想を映像化した作品というわけではないのですが
おそらくは監督が本来持っている思想の中に
ニーチェを反映する何かがあるのは確かでしょう。
しかし、これはあくまで映画作品なのであって
このような、映画が映像表現であるという根本的な特徴を
最大限に活かすべく作られた作品を前にして
なにからなにまで言葉に置き換えて解釈してみる必要は
ないのかもしれません。
たとえ、作り手がなにかしらの意図を持って撮られた映像でも
観客はただそこに映っているのものに
視線を注げばそれでいいとでもいうような
解釈の余地を与えない硬質な態度が感じられます。

冒頭のナレーションが終わるとすぐに映し出されるのが
暴風の中をいく馬車とそれを牽く苦しそうな馬のアップ。
馬の荒々しい息づかいが聞こえてきそうなのに
なぜか静けさを感じる迫力の映像です。
久しぶりに黒がしっかりと黒い映画を観たような気がします。
1シーン1カットの長回しのシーンですが
馬の顔をアップで捉えるほど近づいたかと思うと
馬車の全体が映るまでに遠ざかったり、
一体どうやってカメラが併走しているのか不思議になりつつ
白と黒のギラギラとしたコントラストに
目を奪われるのです。

農夫(ヤーノシュ・デルジ)その娘(エリカ・ボーク)
ひたすら単調な日々を淡々と暮らしています。
その単調さに不満をもらすわけでもなく、
かといって満足しているふうにも見えないふたりは
必要最小限の会話しか交わしません。
井戸で水を汲む、右手の不自由な父親に服を着せる、
茹でただけのじゃがいもをひとつずつ食べる。

この繰り返しです。
監督がインタビューで語っていたましたが
延々と続いていく生活のルーティンは
同じことの繰り返しで何も変化がないように見えますが
まったく同じ日というのもないのです。
日々の単調さを表現したいのであれば
毎日の生活を同じアングルから同じ構図で撮ればいいのですが
たとえば、食事のシーンでは
1日目は父親の顔、2日目は娘、3日目にはふたりというように
構図を変化させています。

2度、闖入者が現れ、ふたりの単調な生活をかき乱しますが
この二組の闖入者はどちらも父娘に
言葉(=思考)をもたらそうとやってきたように見えます。
ただ日々の労働を繰り返し、生命の法則にのみ従って
食事を取り、睡眠を取りしているふたりにとって
言葉(=思考)が邪悪なものとして存在しているかのようです。

最初に、異常の徴候を見せるのはやはりです。
いつものように仕事に出かけようとした父が
いくら強く打ち付けても馬は動こうとはせず
全くいうことを聞かなくなります。
正体不明の強い意志で全てを固辞するかのような馬は
やがて餌を食べることを辞め、水も飲まなくなるのです。
いつしか父娘の生活にも異常が現れ、
突然井戸が涸れ、オイルがあっても火が付かなくなるのです。
まるで馬はあらかじめこうなることを
知っていたかのようです。

僕は間抜けにも、作中で終始吹き荒れる暴風を
こういう地域がどこかにあるんだろうと呑気に考えていましたが
映画が進むにつれて、徐々に勢いを増すような暴風が
あきらかな舞台装置であり、
生々しい生活が淡々とくり返されているにもかかわらず
異次元の終末的世界観に覆われているのだと気づきました。
父娘の生活は、日々の生活のルーティンの集積である人生が
高密度で圧縮されたものであり、
作品に現れる孤独や過酷さが生を生きることそのもののように
思えてくるのです。

水も火もなくなって、
茹でることさえできなくなったじゃがいもを前にして
食べようとしない娘に対して、
父は自由の利く左手だけで皮をむき、こういうのです。
「食べねばならない」

たとえどんなに絶望的な状況でも
この先の未来にいささかの光明も残されていなくとも
「食べねばならない」という言葉が示す
生の基本をないがしろにしてはいけないのです。
「生きがい」という流行歌に踊らされることなく
清貧の思想などでもなく
生きものとしての日々を全うすることができるのかどうか……

タル・ベーラ監督はこの作品が最後の作品だと公言しています。
自分が言いたいことはすべて言った、と。
そういっておきながら、あっさり前言撤回して
新作を発表するケースはよくありますが
この人はそうはしなさそうだな。どうでしょう。





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