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メランコリア

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(原題:Melancholia 2011年/デンマーク・スウェーデン・フランス・ドイツ・イタリア合作 135分)
監督・脚本/ラース・フォン・トリアー
出演/キルステン・ダンスト、シャルロット・ゲンズブール、アレクサンダー・スカルスガルド、キーファー・サザーランド、ジョン・ハート、シャーロット・ランプリング

概要とあらすじ
「ダンサー・イン・ザ・ダーク」「アンチクライスト」の鬼才ラース・フォン・トリアーが、巨大惑星の接近で終末を迎えつつある地球を舞台に、人々の孤独と絶望、魂の救済をワーグナー作曲の「トリスタンとイゾルデ」の壮大なメロディにのせて描き出していくドラマ。姉夫婦の豪華な邸宅で盛大な結婚パーティを開くジャスティンは、皆から祝福され幸福感に満たされる一方、どこかでむなしさも感じていた。そんなとき、巨大な惑星「メランコリア」が地球に向けて近づいていることが判明。それは同時に地球滅亡の知らせでもあったが、それを聞いたジャスティンの心はなぜか軽やかになっていく。主人公ジャスティン役のキルステン・ダンストが2011年・第62回カンヌ国際映画祭で女優賞を受賞した。(映画.comより)



死にたいやつは独りで死ね!

1995年に「ドグマ95」という映画運動を興した
ラース・フォン・トリアー監督
「純潔の誓い」と呼ばれる映画製作上の10個のルールを提唱したわりには
自らはまったくそれに従うつもりはないようです。
この『メランコリア』でも
「純潔の誓い」の定義で禁じられているさまざまなこと、
効果音をのせない、カメラは必ず手持ち、合成しない、
殺人は起きない、ジャンル映画は禁止……と
僕が思いつくだけでも「純潔の誓い」の10個のうち
5個も違反しています
……

じゃあ、なんで「ドグマ95」なんて言い始めたんだよ!

「あんたが世話するっていうから、この犬もらってきたんでしょ!」
と子どもを叱りつける母親になりきるために
あっぱっぱーを買いに西松屋へダッシュしたいところですが
当の本人がインタビューで「ドグマ95」についてふれ、
とくに弁解するふうでもない様子から
ラース・フォン・トリアー監督の
理屈っぽくて自分には甘い性格が垣間見られて
根本的に好きになれない! と思ってしまうのです。

映画製作における思想・信条を提言したのではなく
撮影や編集に関わる非常に具体的なルールであるにも拘わらず、
「純潔の誓い」のすべてが守られなくても構わないなどと
最初から予防線を張るあたりが優柔不断。
コギャルがコギャル語を喋るのと同義の(コギャルって死語?)
仲間内のかりそめの結束を確認しあうための
幼稚なツールだと断じてしまっても構わないでしょう。
「アスファルトの白線を踏み外したら死ぬけど、3秒以内ならOK」
みたいな、下校中の小学生が遊びで決めるルールと同じで
すぐにめんどくさくなって辞めてしまう程度のものです。

「純潔の誓い」だなんて、余計なこと言わなきゃ
普通に作品を観られるのに、あんたが余計なこと言うもんだから
そんな余計なこと言うなって、こっちも余計なこと言いたくなるよ。

さて。
いきなり結論めいたことを言ってしまうと、
この作品は「メランコリア(=憂鬱)」と名づけられた巨大惑星
地球に接近するなか、鬱病を患っているジャスティンと、
その姉クレアが体験する地球滅亡までの物語。
なんとまあ、わかりやすい設定でしょう。
「地球は憂鬱によって滅亡する」というホントに憂鬱な作品です。

この作品は2部構成になっていて
パート1はジャスティン(キルステン・ダンスト)
パート2はクレア(シャルロット・ゲンズブール)
それぞれ焦点を当てています。

パート1では、自分の結婚式に2時間遅れて登場したジャスティン
勝手気ままにやりたい放題。
招待客をほったらかして風呂に入るわ、
旦那のプレゼントを無視して、他の男とヤっちゃうわ……
この時点ではまだはっきりとジャスティンが鬱病であることは
明かされていないので、もう、いらつくやら腹が立つやら。

パート2は、「メランコリア」が地球に衝突するかもしれない不安に怯える
クレアと対照的に、明らかな鬱病の症状を見せていたジャスティンが
なにやら達観したような落ち着きを見せ始めるのです。

つまり、パート1では、
地球滅亡が近づいているとも知らずに
世間体や慣習に囚われている人々が脳天気にパーティーを開き、
世界を憂えているジャスティンを疎ましがり、
パート2では、死の恐怖に翻弄されるクレアを見て
それみたことか、あたしゃマルっとお見通しだったよと
ジャスティンがほくそ笑むのです。

「こんな憂鬱な世の中なくなっちゃえ!」ってことです。
こんな身勝手な話があるでしょうか。

現代に生きていれば、誰しも多少なりとは不安を抱え、
憂鬱にもなるでしょう。
こんな僕も、どいつもこいつも馬鹿ばっかりで
まともに話が通じるやつなんて一人もいないと
四六時中五臓六腑が七転八倒するほど四苦八苦しているし、
老後のことなんか考えようもんなら
憂鬱を通り越して恐怖すら感じますよ。
それでも、生きていくしか仕方がないじゃねえか!

ラース・フォン・トリアー監督なら、映画の中で自分の世界を作って
「憂鬱」という名の惑星に地球を滅亡させて
憂さ晴らしをすればいいのかもしれませんが
「こんな憂鬱な世の中なくなっちゃえ!」と
思っている市井の人間がやることとは
ネットで買ったサバイバルナイフを持って街へ出かけるか
ライフルを持って学校へ行くかしかないのです。
この作品の発想は通り魔か無差別殺人と同様に陳腐です。

ラース・フォン・トリアー監督が自身の鬱病体験をもとに
作品を作るとするなら、それは「憂鬱からの再生」でしょう。
なにも、ハッピーエンドにしろとか、ポジティブにしろだとか、
希望の持てる作品を撮れとかいっているわけではありません。
憂鬱な気分のまま憂鬱な作品を作るような、
誰にでも出来るようなことをするなと言いたいのです。

ラース・フォン・トリアー監督が
これまでの作品で人間の情や業を題材とし、
手持ちカメラによるドキュメンタリータッチの映像で
世界的に評価されているのは確かです。
しかし、彼の作品に一貫するのは、
風呂に人形を持ち込んで遊ぶ子どものように
自分好みに限定された世界の中で
登場人物を思い通りに弄ぶ作品です。
それが人間の本性を暴露し、心に傷を残すような強度を
持っているのかもしれませんが
本性を暴露して喜んでいるのは監督だけで
暴露されたこちら側としては
「まあ、そうだけど。だからなに?」と言いたくなるのです。
だって、人間の本性なんて解決しようがないんですから!
だって、人間の持病なんですから!
監督は、相手が嫌な顔をするのを見て「本質を突いた!」と
得意になっているのかもしれませんが、
ちがうちがう、「知ってるけど、いやなだけ」なのです。
作品に観客が面食らうことはあっても
観客に「気づき」をもたらせることはないのです。

 (憂鬱は)「聖なる狂気」(マニア)の出現の必須条件であるとし、
 哲学者・政治家・詩人・芸術家など偉大な人物の多くが
 なぜ憂鬱質であったかを説明している。
 これは後の18世紀や19世紀の天才に対する観念に影響している。

 ルネサンス以後の中世ヨーロッパにおいては、
 憂鬱質(メランコリア)は芸術・創造の能力の根源をなす気質
 位置づけし直され、芸術家や学者の肖像画や寓意画において
 盛んに描かれた。
 (共にwikipediaより)

要するに、
陰気な顔して押し黙っているやつはなんだか頭が良さそうで、
陽気に笑っているやつは馬鹿だということです。
ラース・フォン・トリアー監督も
「鬱病になった俺って、天才かも!
 おれ以外のやつはみんな馬鹿! ワロス!wwwwwwwwwwwwwwww」

と考えているきらいはあります。

ラース・フォン・トリアー監督には
同じ地球滅亡を描いた『エンド・オブ・ザ・ワールド』を観て
陽気な馬鹿がいかに強いか、勉強して欲しいものです。

念のため、つけ加えますが
本当に鬱病を疾患されている方を揶揄するつもりはありません。
周囲からは怠けているようにしか見えず、
自分ではどうしようもできない鬱病の苦しみは
想像に難くないですし、また、
自分もいつ鬱病になるかわからないという恐怖は常にあるのです。

僕も鬱病になったら、映画でも撮ろうかしらん。
地球が滅亡するやつ。





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