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ホーリー・モーターズ

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(原題:Holy Motors 2012年/フランス・ドイツ合作 115分)
監督・脚本/レオス・カラックス 撮影/カロリーヌ・シャンプティエ
出演/ドニ・ラバン、エディット・スコブ、カイリー・ミノーグ、エヴァ・メンデス、ミシェル・ピッコリ、エリーズ・ロモー、ジャンヌ・ディソン、レオス・カラックス

概要とあらすじ
フランスの鬼才レオス・カラックスが、オムニバス「TOKYO!」(2008)以来4年ぶり、長編では「ポーラX」(1999)以来13年ぶりに手がけた監督作。生きることの美しさへの渇望に突き動かされる主人公オスカーが、富豪の銀行家、殺人者、物乞いの女、怪物など、年齢も立場も違う11人の人格を演じながら、白いリムジンでパリを移動し、依頼主からの指示を遂行していく姿を実験的な映像とともに描き出していく。主演はカラックス監督によるアレックス3部作(「ボーイ・ミーツ・ガール」「汚れた血」「ポンヌフの恋人」)のドニ・ラバン。(映画.comより)



放置されてることを忘れるほど長い放置プレー

いやはや、「待ちに待った待望の」という修辞句が
これほど真実味を持って感じられることはそうありません。
『TOKYO!(2008年)』というオムニバス作品は挟むものの
前作『ポーラX』から13年。
長編デビュー作『ボーイ・ミーツ・ガール』から
およそ30年の間にたった5本の長編作品しかないレオス・カラックス
寡作中の寡作だと言えるでしょう。
『汚れた血』で受けた衝撃は、
もしかしたら未だに引きずっているかも知れないほど鮮烈で
誰になんと言われようとも、自分はカラックスのファンなのだと
恥ずかしげもなく認めるほかないのですが
それにしても、放置されていることを忘れるほど長期間の放置プレイは
果てしない長さだったのです。

そんな待ちに待った『ホーリー・モーターズ』
カラックスのアルター・エゴこと、盟友ドニ・ラバンが主役です。
もともと大道芸人でもあり、パフォーマーでもあるドニ・ラバンを
俳優といっていいのか疑問ですが
彼の狂気と愛嬌を兼ね備えた存在感と運動能力は
やっぱりカラックス作品には欠かせないでしょう。
ドニ・ラバンが出演した作品は
「アレックス三部作」と言われていますが
レオス・カラックスの本名はアレックス・オスカー・デュポンなので
今回のドニは「オスカー」なのです。

とか言いながら、冒頭で登場するのはカラックス自身。
港が近いと思われるホテルの一室で目覚めたカラックスは
隠しドアを開け、顔が見えない観客で埋め尽くされた映画館へと
歩を進めるのです。
このプロローグで、この作品が
カラックス自身の自叙伝的性格を持ちあわせていて
長い間、作品を待ちわびていた不特定多数の観客の前に
カラックスが恐る恐る進み出ようとしているのがわかります。
本人がパジャマ姿なのも、今まで寝ていた(=作品を作らなかった)
ことの表現ではないでしょうか。

正直に言うと、最初に豪邸から登場して
白いリムジンに乗り込む男(銀行家)をドニ・ラバンだと
気づかなかったのですが
最初の「アポ」である「物乞いの女」が登場すると
そこにはまぎれもないドニ・ラバンがいて
この作品がどのように展開されていくのかやっと理解したのです。

この物語は、セリーヌ(エディット・スコブ)が運転する
白いリムジンに乗ったオスカー(ドニ・ラバン)が
「アポ」と呼ばれる仕事を次々とこなしていく一日を描いたものです。
オスカーに課せられた「アポ」とは
さまざまな人間の人生を演じてみせることです。

「物乞いの女」に続く「アポ」は
「モーションキャプチャーのスペシャリスト」です。
ここでドニ・ラバンがみせるアクロバティックな跳躍は
かつての彼を思い起こさせて嬉しくなりますが
いかんせん息が上がってしまうことも描いています。
大画面のCGの前でランニングマシーンに乗って走る姿は
『汚れた血』の名シーンの再現ですね。
突然現れた女性ダンサーとのエロティックな舞踏はキャプチャーされ、
愛憎を視覚化したような3Dアニメーションとなるのです。

続く「アポ」は「メルド」
『TOKYO!』で銀座の街を暴れ回ったあの「メルド」です。
「メルド」の扮装をしたオスカーが
幕の内弁当を食べているのはご愛敬。
(そばに置いてあったカップは味噌汁だろうか)
『TOKYO!』の「メルド」が
『ゴジラ』にインスパイヤされたものだったことから
この作品でも「ゴジラのテーマ」が鳴り響きます。
「メルド」はゴジラと同じく人間の業が作り出した怪物であり、
だからこそ「メルド」は下水道(=意識下)に住んでいるのです。
「メルド」が地下へと連れ帰るモデルの
ケイ・M(エヴァ・メンデス)とはケイト・モスのことで
実現しなかった『メルド・イン・USA』という企画の
名残だということです。

「メルド」となって暴れ回ったあとは「父親」です。
オスカーはパーティーに遊びに行った娘を車で迎えに行くのですが
いやはや本当に人というのは見た目の印象で
こうも別人となり得るのかと唖然とします。
嘘をついた娘にオスカーは
「おまえの罰は、おまえがおまえとして生きることだ」と言います。
この言葉はこの作品のテーマに深く関わっているように思います。

続いては「インターミッション」
アコーディオンを弾くオスカーの周りに
どんどんメンバーが増えていく、ミュージックビデオのような
ひたすらカッコイイシーンです。
「インターミッション」=途中休憩なのですから
作品のテーマとは直接関係がないと考えてもよさそうですが
後半から物語が少しずつ変化していくので
前半と後半のブリッジの役割があるのかもしれません。

次は「殺人者、犠牲者」
「犠牲者・テオ」を殺したスキンヘッドのオスカーは
テオの頭を剃り、顔に傷を刻んで
自分そっくりの風貌に仕立て上げるのですが
不意にテオに反撃されたオスカーは倒れ込み、
血を流しながら横たわる瓜二つのふたりの男が映されるのです。
このあたりから「アポ」の中で他人を演じるオスカーと
本来のオスカーとが混在するようになっていき、
メビウスの輪のように少しずつ構造が歪んでくるのです。
次の「アポ」へ向かう途中で、
オスカーは突然セリーヌに車を止めさせ、
最初に登場した銀行家がいる
フーケッツ(シャンゼリゼ通りにある老舗カフェ)に駆け寄り、
銀行家を撃ち殺します。
冒頭のシーンで銀行家は身の危険を感じており、
フーケッツで会合する予定も入れています。
「アポ」のルーティンから逸脱したオスカーが
実は最も嫌悪する自分の分身である銀行家を抹殺するというのは
他人の人格を生きる自分から本来の自分を取り戻そうと
あがいているのかも知れません。

次の「死にゆく老人」でも実体と演技の境界が曖昧になり、
演技をしている相手もオスカーと同じ「任務」を授かって
悲運の姪を演じていて、お互いが演じ合っていることも
知っているのです。
偶然にも再会した昔の恋人ジーン(カイリー・ミノーグ)
『ポンヌフの恋人』にも登場して今や廃墟となっている
サマリテーヌ百貨店で、最後の別れを惜しむふたり。
20年ぶりのふたりの再会は、
そのまま20年前の『ポンヌフの恋人(1991年)』以来であり
ジーンは当然ジュリエット・ビノシュなのです。
ジーン(=ジーン・セバーグ?)もオスカーの同業者で
やはり他人の人生を演じているのですが
「私たちは誰だったの?(Who Were We?)」と歌った後、
任務を遂行するために屋上から飛び降りて
死んでしまいます。

最後の「アポ」は「主夫」
なんの個性もない均質化された建て売り住宅が並ぶなか、
一軒の家に入っていくオスカーを出迎えるのは
チンパンジーの妻と娘!
均質化された中流意識にまみれた連中は猿同然という皮肉か。
はたまた匿名性を表現するための究極の手段か。

ラストで、やっと『HOLY MOTORS』の正体がわかる(?)のですが
ずらりと並んだ白いリムジンたちがコミカルに喋り始めます。
「人間はもう、見える機械を望まない」
「モーターを欲しがらない」
「もはや行為を望まない」
「アーメン」

仕事を終えたセリーヌが仮面をつけるのは
エディット・スコブが演じた『顔のない眼』の少女へのオマージュか。

「HOLY MOTORS」はオスカーたちのクライアントなので
メタな存在には違いないと思うのですが
それを「神の意志」といってしまうのは
あまりに陳腐でつまらないような気がします。
もっと内省的で実存主義的な作品と考えるべきでしょう。

オスカーが「アポ」から逸脱して銀行家を殺す前に
オスカーのボスであり、あたかも神のごとき
「あざのある男」(ミシェル・ピッコリ)に衰えを指摘され、
仕事の原動力は「行為の美しさ」だと答えるオスカー。
それに対して男は「美しさは見る者の瞳の中にある」と返します。
「では、見る者がなければ?」
……これ、結構ぞっとするセリフですよね。
「美しさ」は「美しさ」自体に存在するのではなく
「美しいと感じる他者」によって成立するというのです。
あなたが美しいのはあなたが美しいからではなく、
あなたを美しいと感じるひとがいるから美しいのだ、と。
「では、見る者がなければ?」となるわけです。
自分が自分自身の力によって存在していると思うのは間違いで
他者によって存在させられているとなると、
もともとの自分とは一体何者なのでしょうか。

カラックス監督は、インタビューでこの作品の着想を
「自分自身であることの疲労」「新たに自分を作り出す必要」
ふたつだと答えています。

僕たち私たちは無意識に「自分自身」を演じているのです。
一時期「本当の自分探し」のような馬鹿げた風潮がありましたが
あれは「演じてみたい自分」が手に入らないことに
だだをこねているだけで、鏡に映ったみすぼらしい自分を
受け入れる覚悟のない甘えた行為でした。
そんな現実逃避でしかない自己啓発は論外だとしても
自分が「自分自身」だと思っているものは
実は他者によって作られているというのは事実でしょう。
人から「君って○○なとこ、あるよね?」と言われ
それを気に入って採用すれば
知らず知らずのうちに「○○な自分」を演じ始めるのです。
そんな「自分」が「自分らしく」あることが自分を束縛し
自分を疲れさせていると感じたとき、
「新しい自分」を自ら作り出すというのは相当困難なことだろうし、
そもそもそんなことが可能なのか、僕にはわかりません。

撮影時の監督のかけ声はフランス語で
「Silence, Moteur, Action!(静かに、モーター、アクション!)」
だそうです。Moteur=モーター、エンジンとのこと。
『HOLY MOTORS』=聖なるモーターは
オスカーが言うように「行為そのもの」すなわち肉体性
取り戻すことが「新しい自分」を作り出す手段だと
いっているのかもしれません。

エンドクレジットで突然映される写真は
『ポーラX』のカテリーナ。
2011年に44歳の若さで亡くなっていたんですね。
恋人でもあったカラックスは『HOLY MOTORS』で
自分の人生を振り返り、個人史を通じて
普遍的なテーマにまで昇華させたといえるのではないでしょうか。
もういいかげん、待たされるのにも疲れたので
過去を清算したカラックスが「新しい自分」をみせてくれるであろう
次回作を今から期待し始めています。





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