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さや侍

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(2011年/日本 103分)
監督・脚本/松本人志 脚本協力/高須光聖、板尾創路、長谷川朝二、江間浩司、倉本美津留
出演/野見隆明、熊田聖亜、りょう、ROLLY、腹筋善之介、國村隼、伊武雅刀、板尾創路、柄本時生、竹原和生

概要とあらすじ
お笑いコンビ「ダウンタウン」の松本人志が、自身初の時代劇に挑む監督作第3作。刀を捨てた侍・野見勘十郎と、反発する娘たえの流浪の旅、脱藩した罪で捕らわれた勘十郎が、変わり者の殿様にくだされた、成功すれば無罪放免という“30日の業”に挑む姿を描くオリジナルストーリー。かつて松本が司会を務めたTV番組に出演したことのあるバーテンダーで、俳優経験皆無の素人・野見隆明を主演に抜てきした。 (映画.comより)



いまんとこの松本人志映画の私的総論めいたもの

へそが曲がったまんまで生まれてきた僕は
「○○のファン」という言い方がどうもしっくり来ずに
自分から「○○のファン」と言うことはないのですが
端から見れば「松本人志のファン」だと言われても
甘んじて受け入れる覚悟はあるくらい
僕は松本人志が好きなのです。

ダウンタウンの漫才や『ごっつええ感じ』はもとより
『ビジュアルバム』は何度見返しても爆笑だし、
『頭頭(とうず)』などの実験的な映像作品も観て
松本人志の「笑い」とストーリーテリングには
並外れた力量が間違いなく感じられ、
天才の名をほしいままにする松本人志が
ついに映画を撮るという話題を初めて耳にしたときには
心躍ったものです。

松本人志監督第一作『大日本人』
公開当時とにかく話題沸騰で
僕もいそいそと映画館へ赴き、その後DVDも購入しました。
全体的に、従来からのファンにとっては
松本ワールドのおさらいのような内容。
『正義の味方 (ものごっつええ感じ)』
名作『巨人殺人(ビジュアルバム)』を引き継いだような
サイズ感の違いを軸にした設定で
キャラクターグッズやふえるわかめ、
さりげなく部屋に置かれたダイソンの掃除機など
重箱の隅をつつくような松本流ディティールの細かい笑いが満載で
かなり気合いを入れて望んでいるふうであり
自分の持てる全てを注ぎ込んだといえる作品でした。
公開後は賛否両論を呼び、物足りない点はあるものの
中村雅俊の「ふれあい」の使い方や
それにまつわる「折りたたみ傘」などの小道具へのこだわりは
初監督作品としては及第点と言ってもいいような出来でした。
というか、少なくとも好感が持てる後味だったと思っています。

二作目の『しんぼる』は公開時に映画館で観ることが叶わず
のちにDVDで観たのですが、これが腰を抜かすような大愚作!
『大日本人』で自信をつかんだのかなんなのか
観客をナメきった作品で、最後は自分が神になってしまいます。
とにかく松本扮する主人公の振るまいが頭悪すぎて
いらいらするだけで、一瞬たりとも笑うことなどありませんでした。
「なんでやねん!」系のセリフのつっこみで落としているのに
松本本人は「サイレントみたいなもの」と大口を叩く無自覚さが
この作品に対する憎悪を拡大させるのです。
『大日本人』で得た好感をなきものとするような
作品づくりに対する不真面目さしか感じられない『しんぼる』で
映画監督としての松本人志には一度見切りをつけたのです。
少なくとも、僕の中では。

そして、『さや侍』です。
『しんぼる』を観た後は、松本人志が作る映画は
今後観る必要がないとまで思っていたのですが
観ないと文句も言えないではないかと思い直し、
「どうせだめだろう」などという余計な先入観を振り払い、
できるだけ無垢な気持ちでテレビの前に座ったのです。

『働くおっさん人形』に出演していた、
すぐにばれる嘘をやたらとつく野見隆明が主人公。
『働くおっさん人形』は早朝に放送されていたTV番組で
(その前身の『ビッグモーニング対談』も傑作!)
あからさまにアダルトビデオのインタビューシーンを
おっさんに置き換えたパロディです。
そこに登場するおっさんの中でも
とりわけ気色悪いのが野見さんでした。
直接には画面に登場しない松本がサディスト全開で、
おっさんたちにあれこれやらせては
その無様な姿を観て笑うという点で
そのまま『さや侍』に引き継がれているでしょう。
野見さんが演技未経験の素人ということが話題になりましたが
(野見さんには「さん」付けしてしまうのはなぜ?)
野見さんは作中で基本的になにも演技をしていないので
そもそも演技経験の必要がありません。
というより、通常、演技未経験の素人を抜擢するには
その自然な振る舞いや既視感のない新鮮さなどを
目的としている場合が多いと思われるのですが
野見さんの場合、確かに素人ではあるけれど
誰も見たこともないようなキテレツな変人なので
もはや「動物」といったほうがしっくりきます。
とはいえ、中途半端にセリフも与えられているので
「動物」としても不完全です。

野見勘十郎(野見隆明)
ある事がきっかけで脱藩し、賞金首にかけられ
娘のたえ(熊田聖亜)と共に逃亡の旅を続けています。
刀のない鞘だけを腰につけている勘十郎ですが
勘十郎が逃亡の身となった理由がよくわからず、
自分が見逃したのかと思い、ググってみても
やはり「ある事がきっかけ」となっていて判然としません。
推測するに、妻が病死したことを機に
死を目の当たりにした勘十郎は、悲しみのあまり
人を殺す武器である刀を捨てたと考えることもできそうですが
では、なぜ鞘だけは後生大事に腰にさしているのかは
やはりわかりません。
それを武士に対する未練だと捉えたとしても
勘十郎の武士に対するこだわりも同様に描かれていないので
当然、その未練も理解できません。

ついに捕まった勘十郎は
多幸藩藩主(國村隼)によって
母を亡くした悲しみで笑顔を忘れてしまった若君を
笑わせることが出来れば無罪放免、出来なければ切腹という
「三十日の業」 を課せられることとなるのです。
一日一芸の試練を与えられた勘十郎は
なんとかして若君を笑わせるべく
奮闘することになるのです……

この「三十日の業」 をこなすひとつひとつの芸が
笑いどころとなるはずのものですが
はじめに言ってしまうと
個人的には最初の、目にみかんをはめている、
一番くだらないであろう顔芸は笑えましたが
そこから勘十郎の芸が回を重ねるごとに
どんどんつまらなくなっていく
のです。

勘十郎の芸があまりにもくだらないことを
たえに「何がしたかったんですか!?」とつっこまれたり、
全く動機が描かれないままに勘十郎とたえに肩入れする
門番の倉之助(板尾創路)平吉(柄本時生)
「(うけなかったのは)おれのせい?」などのやり取りは
お笑い好きなら慣れ親しんだものですが、
なんせ編集のタイミングが悪い。
どうせならカット割りなどせずに
ワンカットでやり取りを見せてほしかったところ。

なぜか、板尾を除いて『ごっつ』のメンバーを
映画で使わない松本ですが
この門番の二人組は今田耕治と東野幸治でよかったと思います。
(もしくは板尾とWコージのどちらか)
何も言わない野見さんの両脇に座ったWコージが
アドリブでネタの指南をするところを
ワンカット・ワンシーンで見たい思いで一杯です。
柄本時生の演技に問題があるわけではなく、
演技では出せない芸人のテンポをみせたほうが
面白くなるはずだと思うからです。
『いきなりダイヤモンド(ビジュアルバム)』での
漫才を教えているやり取りそのものが高度な漫才であったように
勘十郎に芸を教え込むことそのものが
高度な芸であることがシーンの魅力となるはずです。

若君がまったく笑わないおかげで勘十郎のネタ見せは続き、
どんどん大がかりなものへとエスカレートしていくのです。
細かい揚げ足を取るつもりはないのですが
次の日のネタのアイデア出しは夜中に行なわれているのに
夜が明けて次の日になると、大砲やらなんやらの
大規模なセットが完成しているのは興醒めです。
ご都合主義的なところがあっても納得がいけばそれで構いませんが
「三十日の業」が毎日行なわれていることで
劇中での時間の感覚を身につけてしまっているので
逆に、どうやったらそんな短時間でこれが用意できるのか
という疑問が浮き彫りになるのです。
「三十日の業」でのネタ見せが週に一回であれば
まあ、なんとかしたんだろうと思えるし、
さらに言えば、「三十日の業」が「三十回の業」であれば
日々の時間の感覚が介在しないので
おお、今度はそんなもん用意したのか! となるはずです。

そして、大問題なのが
勘十郎がふすまを破って若君にカステラを届けに行くシーン。
ナンナンダ、コレハ!
たかが門番ふぜいが進言したくらいで
「三十日の業」が屋外OKになったり、
観客を入れるのもOKになるのは大目に見るものの、
このシーンで、勘十郎の苦行の目的が
「笑い」ではなく「感動」へとすり替わっています。
しかも「ふすま破り」のような『たけしのウルトラクイズ』的な
リアクション芸は松本の笑いとは最もかけ離れたものでしょう。

本来なら勘十郎を見守る観客たちは
「がんばれー」などと声援を送るのではなく
大笑いしていないといけないはずです。
周囲にいるもの全員が大笑いしているのに
若君だけが笑わないというシチュエーションでなければ
ならないと思うのですが。

ここから先は陳腐な感動物語へとまっしぐらです。
最後の、巨大な風車を息を吹きかけて回すというのが
成功したところで、誰が笑うのでしょうか。
ただの「ぼく、がんばってます」というアピールです。
そもそも、若君を笑わせるのが目的なのに
多幸藩藩主(國村隼)が
笑いをこらえている演出も理解できないし、
藩主が勘十郎に情が移るのも意味不明です。
まさか松本人志ともあろう人が
「笑わそうとして頑張ってるんだから、応援してよ」
とでも言いたいのでしょうか。
要するに、クライマックスに到るまでの
プロセスが全く用意されず、
唐突に方向転換された脚本に観客は途方に暮れるだけです。
これは「観客の予想を裏切る」といった演出とは
まったく意を異にするただのデタラメです。

やがて切腹が決まった勘十郎は
辞世の句で若君を笑わせることに最後の望みを託します。
しかし、勘十郎は辞世の句を詠まずに腹を切るのです。
なんだか一見、男らしく、感動的なように見えるのですが
これはあくまでただの逃避です。

勘十郎は脱藩した後、娘に罵られながら逃げ回り、
「三十日の業」に到っても
二人の門番が出すアイデアに任せっきりの言いなり。
最終的にはせっかく用意してもらった辞世の句も放り投げて
この世から逃げてしまいました。
なにに感情移入して、どう感動すればいいのでしょうか?
松本はインタビューで
「“切腹”が嫌でジタバタする男を撮ってみたいと思った」
と語っていますが、
勘十郎は一度でもジタバタすることがありません。
自分で自分の苦況を切り開くために
頭を悩ませることすらないのです。
こんな男にどうやって感動すればいいのでしょうか?
最後の最後で、辞世の句を言わずに死んでいった勘十郎が
笑いからの逃げていく松本人志の後ろ姿に見えました。

ラストの、坊主が歌うシーン
僕の知っているかつての松本人志の奇抜さが
少しだけ垣間見えましたが、
いかにもJ-POPなその歌そのものが端的にダサく、
勘十郎の娘をアングルを変えて映し出す編集が邪魔だし、
それよりもなによりも、ここまでに溜め込まれた感情がないので
全く心に響いてきませんでした。

「映画をぶっ壊す」と言ってはばからない松本ですが
その言葉こそ最も「映画的なるもの」に囚われている証拠です。
映画界で認められたいという想いからか
『さや侍』の松本は、
言葉とは裏腹に「映画的なるもの」への迎合が甚だしいのです。
新しい分野に挑戦するときの松本は
意外にも萎縮と迎合を併せ持つ傾向があり、
『電波少年』でのアメリカ向けの忍者に扮したコント
アメリカ人が気に入る日本文化にこびる内容だったし、
浜田が歌った『チキンライス』の歌詞も
寒気がするほど陳腐なセンチメンタリズムに包まれていました。

松本の笑いには、常に「悲しさ」がつきまとうという評価があり、
それは間違いないのですが、
その「悲しさ」を松本自身は
元々自覚していなかったのではないでしょうか。
『トカゲのおっさん』『スキマ男』『文化住宅』『荒城の月』……
どれをとっても松本が作ったコントは、表面上は爆笑していても
よくよくその登場人物の背景に思いを馳せてみると
「悲しいなぁ」としか言えないものなのです。
(ていうか、コントのタイトルをこんなに憶えていること自体、
 好きなんだなぁ……オレ)
そういう無自覚だった「悲しさ」が評価されていることに気づき
「悲しさ」を打ち出したものを作る……これはだめなんです。
表現者なら誰でも陥ることで、対処が非常に難しいのですが
隠し味は、あくまで隠しているからこその味であって
表に出すと、しらけてしまうものなのです。
『チキンライス』の陳腐さに比べて
『エキセントリック少年ボーイ』の終わりの歌の
イメージの豊饒さといったらこの上ないでしょう!

『大日本人』では、映画に対する畏怖の念を、
『しんぼる』では、映画に対する慢心を感じ、
そしてとうとう、この『さや侍』で
松本人志は映画に対して萎縮していると感じました。

かつてのテレビでの松本は
「オレが面白いと思うものが一番面白い」という
自信に満ちあふれていました。
そこに傲慢さを感じながらも、圧倒的な面白さに
視聴者たちは腹を抱えて笑っていたのです。
ところが『さや侍』では「笑い」を脇にまわし、
観客に媚びへつらってみせたのです。
こんなことでは、おそらく松本が
最も尊敬し、最も意識しているであろう
北野武の足下にも及びません。
なぜ、こんなことになってしまうのでしょう。

映画とテレビのコントの違いについて
僕にははっきりしたことはわかりませんが
松本が『ビジュアルバム』でみせたコント群は
むしろ「映画的」であったとも思います。
では、松本が撮る映画がこれほどまでに
つまらないのはなぜなのか。
フォーマットの違い、上映時間の違い、
衣裳と扮装の違いなど、さまざまな要因があるのでしょうが
『さや侍』においては
松本の萎縮した自尊心が見て取れます。
自分に自信を持てない表現者が作る作品ほど
つまらないものはないでしょう。

松本はもともと「言葉の人」です。
言葉のニュアンスや言い回しに異常なほどこだわり、
そのズレを笑いにしてきたのです。
にもかかわらず、松本は映画を撮るごとに
登場人物のセリフが減り、寡黙になっています。
これは世界を意識してのこと?
意識すれば認められるのなら、誰も苦労はしません。
松本が今後も映画を撮り続けるのであれば
見栄を張ったり、媚びを売ったりするのは辞めて
原点に立ち返り、自分が面白いと思うものを
見つめ直すことだと思います。
そして、言葉遊びだらけの映画を撮っていただきたいのです。

自身の映画に対するあふれかえる不評を受けて
「面白さがわかってない」とか
「映画的じゃないから認められない」とか
はっきりとそういったかどうかは定かではありませんが
松本があちこちでそういうニュアンスが感じ取れる発言を
しているのを目に耳にします……

違うんだよ! 映画的とかどうでもいいんだよ!
ただただ、面白くないんだよ! つまらないんだよ!

いつの日か、松本人志の映画を観て
楽しめるときがくることを祈っておる次第でございまする。

最後に、2012年11月に他界した中村勘三郎
『子ども相談室』で耳にして以来、
自身の支えとしていたという言葉を。

「型破りとは型のある人がやるから型破り。
 型のない人がやったら、それは形無し。」






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