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ザ・トライブ

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(原題:Plemya 2014年/ウクライナ 132分)
監督・脚本/ミロスラブ・スラボシュピツキー プロデューサー/ヴァレンチヌ・ヴァシャノヴィチ、イヤ・ミスリツカ 撮影/ヴァレンチヌ・ヴァシャノヴィチ プロダクション・デザイン/ヴォラド・オドゥデンコサウンド・デザイン/セルギー・ステパンキー 編集/ヴァレンチヌ・ヴァシャノヴィチ 衣裳デザイン/アリョナ・グレス
出演/グリゴリー・フェセンコ、ヤナ・ノヴィコァヴァ、ロザ・バビィ、オレクサンダー・ドジャデヴィチ、ヤロスラヴ・ビレツキー、イワン・ティシコ、オレクサンダー・オサドッチイ、オレクサンダー・シデリニコフ

概要とあらすじ
聾唖(ろうあ)者の登場人物により、全編が手話のみで描かれる異色のドラマ。セリフが一切ないため、字幕も吹き替えも存在しない作品で、2014年・第67回カンヌ国際映画祭の批評家週間でグランプリを受賞。これが長編初監督となるウクライナの新鋭ミロスラブ・スラボシュピツキーがメガホンをとり、プロの俳優ではない、実際の聾唖者たちが役を演じた。聾学校に入学したセルゲイ。一見平和で穏やかに見える学校の裏には、暴力や売春を生業にする組織=族(トライブ)が幅を利かせていた。セルゲイも次第に組織の中で頭角を現していくが、リーダーの愛人アナに恋をしてしまう。そのことがきっかけで組織からリンチにあったセルゲイは、ある決断をする。(映画.comより



怒鳴る手話! 罵る手話! 泣き喚く手話!

今年前半に公開される作品で
最も期待に胸膨らませていた『ザ・トライブ』
予想を遥かに上回る傑作でした。

全員、演技未経験の聾唖者たちが登場する本作は
「セリフなし」「音楽なし」「字幕なし」という
極めて異例な作品ですが
なんとこれが劇場映画初監督作となったミロスラブ・スラボシュピツキー
「サイレント映画へのオマージュ」と自ら言っているように
言葉を用いず、映像だけですべてを伝えることに注力しています。
「セリフなし」と書いたのは、
あくまで健常者にとっての音声がないという意味で
登場人物たちは、手話を用いて喋りまくっています。
怒鳴ったり、罵ったり、喚いたりしています。

ということは、台本にはセリフが書かれていたはずで
本作を「セリフがない映画」とするのは
音が聞こえる者の傲慢なのです。
(自分でいっといて)
実のところ、登場人物たちが全身を駆使した手話が放つ
「聞き取れない言葉」はものすごく雄弁なのです。

えてして健常者は、
身体障害者のことを無垢で純真な人たちだと思いがちですが
(確かに聾唖者は「おとなしい」かもしれないけど)
いや、少なくともそう思ってしまうふしはあるはずで
身体障害者を扱った映画に
居心地の悪いハート・ウォーミングな作品が多いと感じるのは
そこには微妙にねじれた逆差別が潜んでいると思うからです。
でも、そんなわけないのです。人間だから。
身体障害者たちにだって、渦巻く欲望があるし、
他人を出し抜いてやろうとする狡猾さだって
あってしかるべきでしょう。人間だから。

セルゲイ(グリゴリー・フェセンコ)が入学した聾唖学校は
不良グループ=トライブが幅をきかせていて
強盗、ひったくり、売春などをシノギにしています。
なんと、教員も一緒になって!
(役名はあとから調べてわかったもので、本作で役名は登場しません。)
最初こそいかにも新参者で気の弱そうな印象のセルゲイでしたが、
洗礼リンチで凶暴さを発揮して認められ、
トライブの仲間に加わることに。
このシーン、ビルが半壊したようなうらぶれた場所に
大勢のトライブたちが集まっているのですが
セルゲイが格闘するうしろで見物する連中は
おのおのが手話で激しくはやし立てたりしているのに
当然、まったく声は聞こえず、
まるで木の枝に止まった鳥が羽根をばたつかせているかのよう
非常に不思議なシーンです。

アナ(ヤナ・ノヴィコヴァ)とその友達の女の子ふたりは
長距離トラックが並んでいる駐車場へ行っては
運ちゃん相手に売春しています。
ある日、ポン引き役の少年がバックしてきたトラックに轢かれて
死んでしまった(?)ため、
(このシーンの唐突な暴力も息を呑んだ)
トライブ内で認められつつあったセルゲイが
新たなポン引き役に指名され、
そのころからセルゲイはアナに対する恋心を
募らせるようになるのです。
ところが、アナはボスの女で
セルゲイの愛情などには無頓着なビッチなのでした。

客として金でアナを買うことしかできないセルゲイ。
(こんなに絵画的で美しい69は初めて観ました)
なんとかアナの気を惹こうとするセルゲイは
アナの堕胎費用まで工面します。
堕胎手術を受けることになったアナを施術する
闇医者ババアの雑さったら! なに、あの縄!

一方的に恋心の炎を燃え上がらせるセルゲイは
アナのイタリア行きを阻止するべく、
おそらくは苦労して取得したアナのパスポートを食いちぎり、
トライブたちからボコられます。
(ここの唐突な後頭部殴打も、ヒくほど衝撃的)
そして、息が詰まるようなラストシーンへ。

積もった雪を踏みしめながら歩くセルゲイ。
トライブたちが眠りについている部屋にやってきたセルゲイは
ベッドの脇にあったチェストを持ち上げ、
ひとりずつ頭を潰していく
のです。
たとえ隣のベットで寝ているやつが頭を潰されていようとも
聾唖の彼らはまったく反応することがありません。
とてつもなく、絶望的な暴力を最後に
映画は幕を閉じます。

パンフレットを読んでも、
セルゲイが学校に到着したときに行なわれていたセレモニーは
「公式祝賀会」とあるだけで、
なにを祝っているのかわからないし、
アナと友達がイタリアへ行きたがっている理由もよくわかりません。
(ウクライナの緊張した政治状況も背景にあるのかも)
でも、そんな細かいことはどうでもいいのです。
一切の説明を排除していても物語は十分に理解できます。
むしろ理解できていることのほうが驚きで、
じゃあ、セリフで語り、音楽で盛り上げる通常の映画とは
一体何だったのか、と考えざるを得ません。

音がなくとも異常なほど饒舌な本作は
情報が与えられるのを待っているだけでは不十分で
知らず知らずのうちに何が語られているのかを知ろうと
積極的に映像に集中してしまいます。
情報に対するある種の飢餓感すら憶えます。

さらに、全編を通してワンシーン・ワンカットというカメラワークが
緊張感を持続させるのに効果的です。
最近では『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
擬似長回しが話題になりましたが、
本作における、フィックスした画面からスムーズに移動したり、
または歩く人物を追うように移動したカメラが
ある一定の場所に到着すると完璧な構図でフィックスされたり、と
『バードマン』よりもストイックかつ理にかなった
本作のワンシーン・ワンカットのほうが評価されるべきではないでしょうか。
(比較することもないのだけれど)

登場人物を追いかけてカメラが移動する宿舎の廊下は
まるで監獄のようでもあり、迷路のようでもあり、
健常者と聾唖者の違いを描いているわけではないにしろ、
社会において聾唖者たちが追いやられている立場の閉塞感を
(もしかしたらウクライナの閉塞感も)
表現しているように感じました。

また、単に僕が無知なだけかも知れませんが
(無知がもたらす予期せぬ奇跡!)
冒頭で登場する蛇腹で繋げたような異様に長いバス
アナが妊娠を自覚する女子トイレの
プライバシーもへったくれもない構造
とか、
ウクライナでは当たり前なのかも知れませんが
何とも言えないSF感のような、ここじゃない感も魅力でした。

本作には、耳が聞こえて口がきける、
いわゆる健常者は登場しません。
(いや、本当は数人登場しているけど彼らの声は登場しない)
それは、聾唖者たちにとって
健常者たちの声が聞こえないからではないでしょうか。
本作は健常者の立場からみた
聾唖者たちの生活の実態を描こうというものではありません。
聾唖者たちにとっては、実態を描くも何も
これが日常なのだから。
音がない世界は聾唖者にとって当たり前なのです。

とはいえ、本作で際だって特徴的な環境音
聾唖者たちには聞こえていないはずで
これまた単純に聾唖者の実態を
再現しようとしているわけではないのです。

なんか、いつも以上に
支離滅裂な文章になったような気がするぜ。
とにかく感じとることがいっぱいなのです。
やはり、寡黙は饒舌というべきか。
あ、本作で唯一はっきりと声(らしきもの)が
聞き取れるシーンがありました。
それは、セルゲイの嗚咽でした。





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