" />

ザ・マスター

themaster.jpg



(原題:The Master 2012年/アメリカ 138分)
監督・脚本/ポール・トーマス・アンダーソン 撮影/ミハイ・マライメア・Jr. 編集/レスリー・ジョーンズ、ピーター・マクナルティ 音楽/ジョニー・グリーンウッド
出演/ホアキン・フェニックス、フィリップ・シーモア・ホフマン、エイミー・アダムス、ローラ・ダーン、アンビル・チルダース、ラミ・マレック

概要とあらすじ
ポール・トーマス・アンダーソンが「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」(2007)以来5年ぶりに手がけた監督作。第2次世界大戦直後のアメリカを舞台に、爆発的に信者を増やしていった新興宗教の教祖とその弟子となった男の関係を描き出す。第2次世界大戦が終結し、赴任先からアメリカへ戻ってきた帰還兵のフレディ・クエルは、戦地ではまったアルコール依存症から抜け出せず、社会生活に適応できずにいた。そんなある日、フレディは「ザ・コーズ」という宗教団体の指導者で、信者から「マスター」と呼ばれているランカスター・ドッドに出会う。ドッドは独自のメソッドで人々を悩みから解放し、フレディもドッドのカウンセリングで次第に心の平静を取り戻していく。ドッドは行き場のないフレディをかたわらに置き、2人の絆は深まっていくが……。主演はホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマン。2012年・第69回ベネチア国際映画祭で銀獅子(監督)賞、男優賞を受賞。(映画.comより)



ねぇ、マスター。作うってやぁってよぉ

『マグノリア』が、どれだけ一般的な評価が高かろうと
奇をてらった設定とシュールを目的としたシュールな演出を
どうしても好きになれないのですが
ポール・トーマス・アンダーソン監督の前作、
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』における
登場人物の情念が静かに絡み合い、
スクリーンから脂汗がにじみ出てくるような映像は
間違いなく賞賛に値するもので
僕にとっての「あの『マグノリア』」を撮った
頭でっかちな監督の作品とは思えないような傑作でした。

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』と時代的にも地続きな
『ザ・マスター』
ポール・トーマス・アンダーソン監督の
作品づくりにおける興味の変移を見ているようで
作家としての自然な振る舞いに好感が持てるのです。

戦争を主題とした映画で時折描かれる
兵士たちの自堕落な退屈しのぎの光景は
その弛緩しきったようすが彼らの死と隣り合わせの日常を
かえって際だたせるものですが
砂浜でのオープニング・シーンにおける
飲酒とオナニーという、いずれも快楽の後に
いささかのむなしさを伴う行為であることが
楽しい海水浴とは違う不穏な緊張感を漂わせています。

第二次世界大戦後の1950年代のアメリカ
好景気に恵まれて浮かれているものの
誰もが精神的な不安を抱えていた時代で
帰還兵フレディ(ホアキン・フェニックス)
アルコール依存はそんな時代そのものを
体現しているのかも知れません。
その後1960年代に入ると、
ヒッピーに代表されるような、魂の解放を求めた
フラワー・ムーブメントが巻き起こるわけで
1950年代という時代が
なにか鬱屈したものを抱えていたというのは事実でしょう。

帰還兵の精神状態を探るためのロールシャッハテストでは
フレディの目にはどんな形もすべて性器に見えてしまいます。
ただ単にまともに答える気がないとも言えますが
フレディの頭にあるのは欲望と快楽しかなく、
それ以外のことに興味がないようにも見えます。

デパートのカメラマンとして社会復帰したフレディですが
妻のために記念撮影をするという男性に
わけもなくキレてしまいます。
前日の深酒の影響に加えて、おそらくは
「妻のために」というセリフが癪に障ったのでしょうが
この喧嘩に到るまでの長回しが秀逸です。
この直前のモデル(?)が商品を紹介しながら
フロアを踊るように動いているようすも
長回しでとらえられていましたが
本来、長回しが俳優の演技に与える緊張感が観客にも伝わり、
ただならぬ事態の前触れを表現するために
効果的に使われていました。
要するに、そのシーンを最も効果的に表現するために
長回しが使われているのであって
長回しという技工を見せたいがための長回しではないのです。

フレディと出会った
ランカスター・ドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)
不審者でしかないフレディを受け入れます。
フレディの作る特製カクテル(シンナー入り!)が
気に入ったように見えるものの、納得するほどの理由でもなく
ドッドの直感としかいいようがありません。
ドッドはこのとき既にフレディに
自分にはない魅力を感じていたのかも知れません。

「ザ・コーズ」という新興宗教団体の
指導者=「マスター」ことドッドは
狡猾かつ傲慢な人間ではなく、むしろ親しみやすく
決して悪人ではないし、そのように描かれてもいません。
ジョークを交えた演説で人の心をつかみ
その柔和な面持ちが彼にカリスマ性を与えているのです。

やがて、フレディは「プロセシング」と呼ばれる、
前世の魂の記憶を引きだすカウンセリングを
ドッドと一対一で行ないます。
禅問答のような質疑応答に
フレディがまばたきをせずに答えろと言われ、
必死にまばたきを我慢しながら答えていく、
これまた長回しのシーンは絶品で
ただ、まばたきするかしないかだけの話なのに
ものすごく差し迫ったような緊迫感で
見ているこっちまでつられて
まばたきを我慢してしまうのです。

「ザ・コーズ」は
ドッドの話術と文才に支えられているとはいえ
同族経営で、息子も娘も娘婿も
寄生虫のようにドッドにまとわりついています。
その中で、ドッドを裏から束縛するのが
ドッドの若い妻ペギー(エイミー・アダムス)です。
「あなたは好きなようにすればいいの。
 わたしや家族に気づかれないようになら」
と、静かな口調で脅しながら
ドッドの後ろから近づき、手コキをするのです。
ペギーがしごき始めてから、ドッドが果てるまでを
またまたワンカットでとらえているのが素晴らしい。
「ザ・コーズ」とドッドを裏から支配しているのは
ペギーなのです。
ペギーは文字通り、ドッドの急所を握っているのです。
(ウマイコトイウ!)

留置所の中での、フレディの暴れっぷりと
子供じみた罵り合いは見物ですが
ここで、ドッドからフレディに思わぬ愛の告白。
といっても、同性愛ではありません。
ドッドとフレディの心のつながりは
ポール・トーマス・アンダーソン監督がこれまでの作品で
繰り返し表現してきた父と子の関係でもあるし、
男同士の友情でもあります。
ただ、これを恋愛と言ってもあながち間違いではないような
複雑な心理なのです。
性別を超えた愛憎といったほうが
手っ取り早いかもしれません。

監督いわく、
「人はマスターという存在なしに生きられるのか?
 もしその方法があるのなら教えてほしい。
 我々誰もがこの世をマスターなしで
 彷徨えるとは思えないから」


直訳では、「マスター」=主人となるのでしょうが
「マスター」とは、先導者であり、指標であり、
人生を託せる愛すべきものと捉えることもできそうです。
フレディは人生の指標を完全に見失い、
欲望と快楽の赴くままに行動していますが
自ら享楽的な生き方を望んでいるのではなく
自分が生きている価値を裏付けてくれる根拠を求めています。
昔の恋人との約束を果たしていれば
恋人との生活を根拠に自分の価値を見いだせたのですが
それはかなわず、唯一の理解者であるドッドに
自分の生の根拠を求めたのです。

かたやドッドは、自分の才能のままに
(それがインチキだったとしても)行動し、
地位も名誉も手に入れているかのように見えますが
無自覚に御輿の上に乗ってしまった彼は張りぼてでしかなく
自分の自由な意志(=マスター)を持つことができずに
虚飾によって成り立っています。
一度つき始めた嘘は、つき続けるしかないという束縛から
自由になることができずにいるのです。
ドッドの心の中にある空洞を埋めるもの、もしくは
心の中に幽閉しているものを体現しているのが
フレディなのです。
だからこそ、ふたりは惹かれ合うのです。

ドッドはフレディを「下劣な獣」だといい、
また「自由になれ」とも言います。
ドッドは感情をむき出しにするフレディを
愛おしく思っているのですが
フレディが身を任せる欲望と快楽は
決して「マスター」にはなれないのです。
いや、それを「マスター」にすることは人間にはできないのです。
なぜなら、それは「下劣な獣」だから。
すなわち、この作品が描いているのは
理性(=ドッド)と本能(=フレディ)の
決して報われることのないラブストーリーなのです。

人は常に理性と本能との葛藤に悩まされています。
本能という表現がお気に召さなければ
動物性でも野生でも欲望でもちんこでもまんこでも構いません。
未来永劫相容れることのない理性と本能の愛憎こそが
人間そのものなのではないでしょうか。

この作品の音楽を担当したのは
レディオヘッドのギタリスト、ジョニー・グリーンウッドですが
不協和音を伴うストリングスと時代を感じさせるジャズは
サントラ、マストバイ! なんつって言いたくなるような
素晴らしい音楽でした。
レディオヘッドの良さはまったくわかりませんがネ。

全編を通して、フィリップ・シーモア・ホフマンと
ホアキン・フェニックスの演技の百本組み手みたいでしたが
口唇口蓋裂の後遺症(?)によって歪むホアキンの口元が
フレディというキャラクターのだらしなさと
危なっかしさを観客に伝えるのにはもってこいでした。
早死にしたリバー・フェニックスを兄に持つホアキンですが
彼の両親は、のちに幼児虐待や性的暴行で問題視されるようになった
「神の子供たち(Children of God)」という新興宗教の
熱心な信者だったようで
フレディを演じるにあたって、なにか影響があったのかどうか……

この作品の中で、何度か出てくる取っ組み合いは
非常にリアルであると同時にその真剣さが滑稽で、いいシーンでした。
留置所から出所したフレディとドッドのじゃれあいも
フレディのズボンが破けるまでやるあたり、笑えました。

パーティーでドッドが歌い踊るなか、フレディの目を通して
女性だけがつぎつぎと裸になっていく倒錯したシーン
船の手すりを画面中央にとらえ、甲板と荒れる海が対になるシーン
だだっ広い砂漠の近未来感と疾走するバイクの爽快感。
どれをとっても素晴らしい映像でした。

エンドロールが終わって場内が明るくなったとたん、
前列にいた女性3人組が
「もう一回みたいね—」と言っていたのを耳にして
「鋭い感性をお持ちのご婦人方、ちょっとそこいらで
 一杯やりながら『ザ・マスター』について
 話し合いませんか? ワリカンで」
などと声をかける度胸もなく、
そそくさと帰路についたのでした。
もう少し勇気を出して声をかけておけば、
手コキくらいしてくれたかも、って、バカ!!





にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ 
↑お気に召したらクリックしていただけますと、もんどりうって喜びます。
関連記事
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

«  | ホーム |  »

プロフィール

のほうず

のほうず
映画が好きで観るのはいいが、
かたっぱしから忘れていくので
オツムのリハビリ的ブログ。
******************
当ブログの文章・画像およびイラストの無断転載を禁じます。引用される場合は、出典の表記と当ブログへのリンクを設定してください。

FC2ブログランキング

FC2Blog Ranking

お気に召したら
クリックお願いします。
にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ

スポンサードリンク

↓過去の記事はこちらから!↓

検索フォーム

QRコード

QR

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

カウンタ