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フィツカラルド

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(原題:Fitzcarraldo 1982年/西ドイツ 157分)
監督・脚本/ベルナー・ヘルツォーク 撮影/トーマス・マウフ/美術/ヘニング・フォン・ギールケ、ウルリッヒ・バーグフェルダー 音楽/ポポル・ブー 編集/ベアテ・マインカ=ジェリングハウス 衣裳/ジゼラ・ストーチ 特殊効果/ミゲル・バスケス
出演/クラウス・キンスキー、クラウディア・カルディナーレ、ホセ・レーゴイ、ミゲル・アンヘル・フェンテス、パウル・ヒットシェル、ウェレケケ・エンリケ・ボホルケス、グランデ・オセロ、ペーター・ベルリング、デイヴィッド・ペレス・エスピノーサ

概要とあらすじ
南米ペルーの密林にオペラ・ハウスを建設しようと試みる男を描くドラマ。82年のカンヌ映画祭監督賞を受賞している。製作はヴェルナー・ヘルツォークとルッキ・シュティペティック。監督・脚本は「アギーレ・神の怒り」(72)のヴェルナー・ヘルツォーク。撮影のトーマス・マウフ、音楽のポポル・ヴーはともに「アギーレ・神の怒り」にも参加している。マナウスにおけるオペラ「エルナニ」をヴェルナー・シュローターが演出している。(映画.comより抜粋



冒険を映し出す映画という冒険

CG全盛の今日では、
アイデアさえあればどんな映像を創り出すことも可能です。
モーション・キャプチャーでモンスターを演じたり、
AIが埋め込まれた大量のモブをランダムに行動させたり、
まったく演じていない俳優の顔だけを合成したり、
それはそれで制作の苦労はあるし、観ていて楽しいし、
最先端のCGを使わなければ表現できないものもあるわけですが
「ほんとにやってるぞ!」という驚きそのものは
あいかわらず厳然と存在するのです。

その「ほんとにやってるぞ!」の驚きをもってして
映画史に刻まれている『フィツカラルド』
ほんとに「船が山を登る映画」
クラウス・キンスキーが演じる主人公の妄執のみならず、
(加えて本人のいかれた顔つきと)
ヴェルナー・ヘルツォーク監督の狂気まで
映し込んでいるような気がします。
なにやら、主人公フィツカラルドは実在の人物で
本当に船で山を越したそうですが
本物のフィツカラルドは船を分解して山を越したそうなので
いたって、まとも。(そうか?)

裏話として、主人公のフィツカラルド役は
ジャック・ニコルソン→ウォーレン・オーツ→
ジェースン・ロバーツ
が病気などのために次々と降板し、
最終的にクラウス・キンスキーが抜擢されて撮影し直したとか。
ミック・ジャガーも出演するはずが
撮影が延びすぎて途中で降りたんだそうです。
また、エキストラの先住民が撮影中にほかの部族から首を矢で打ち抜かれ、
部族間戦争まで勃発した
という、
虚実ない交ぜで過酷な現場だったようです。

未開の南米に入植したヨーロッパ人が
身勝手な冒険心に火をつけて先住民の土地を蹂躙する物語は
同じくクラウス・キンスキー主演の『アギーレ・神の怒り』
よく似ているし、『地獄の黙示録』の原作でもある、
ジョセフ・コンラッド『闇の奥』と同様に
河を遡って未踏の地へ向かうところも共通しています。
『アギーレ・神の怒り』で河を遡るのは支配欲に駆られた独裁者でしたが、
フィツカラルドは、アマゾンの奥地にオペラ劇場を建てるという
個人的な夢を達成するのが目的です。
ま、どちらにせよ、妄執に取り憑かれた狂人には違いなく、
個人的な夢を実現させるということは
自分が思い描く世界を支配する独裁者になること
にほかなりません。
また、アマゾンの奥地にオペラ劇場を建てるという発想自体にも
白人文化の優生思想的なものを少なからず感じます。

ゴムの木が多く繁殖する手つかずの土地を目指すために
フィツカラルドが中古の蒸気船を手に入れられたのは
情婦が金を貸してくれたおかげ
、というのは
物語上重要だと思いますが、先を急ぐとして
森の中から見張っているであろう先住民たちの攻撃に怯えながら
船が奥地へと河を遡っていく緊張感溢れるシーンのあと、
ついに山越えのポイントに到着します。
乗組員のほとんどが逃げ出していなくなっていたうえに、
先住民に退路を断たれてしまったフィツカラルドは
「白い船に乗った神が現れる」という先住民たちの神話を利用して
先住民たちを抱き込み、山越えを手伝わそうとすると
先住民のリーダーはあっさりOK。
「船の山登り」が始まります。

ここからのシーンは、フィクションだということを忘れ、
船を山越えさせる現場を記録したドキュメンタリーのようです。
42°という急勾配にそびえ立つ樹木を次々に切り倒していくさまには
映画作りの傲慢さすら感じます。
とにかく、陸に上がったときの船の巨大さに圧倒されるのですが
ダイナマイトで山を切り開くシーン
軋みながらウインチに巻き込まれるワイヤーなど、
危険極まりないもので、大事故に繫がっても不思議ではない状況が
あくまでフィクションの映画として映し出されていることに
驚愕してしまいます。
それほど過剰な凄みを感じるシーンですが
これは物語に必要とされて選ばれた演出ではなく、
「船が山を登る」ところを撮影することが目的だったに違いありません。

ついに山を越えた船。
ところが、先住民たちは船をつなぎ止めていたロープを切り、
宴の果てに眠り込んでいたフィツカラルドたちを乗せたままの船は
決して渡ることの出来ない急流へと向けて河を下っていくのです。
この急流を避けるために別の河を遡り、
苦労して船を山越えさせたのですが
先住民たちはこの船が急流に住む悪霊を鎮めると考えたのでした。
まさに木の葉のように流れに翻弄されるフィツカラルドの船。
……ですが、ご覧になった方にはわかるとおり、
このシーンの船は模型を使っています。
なんだよ、ここは実物じゃないのかよ、と怒るなかれ。
どう流れていくかわかりませんから。
沈んじゃいますから。死にますから。
これは模型にしようというくらいの常識は
ヘルツォーク監督にもあったようで、なにより。

河に流されるまま、街に舞い戻ったフィツカラルドは
結局、なにも成し遂げることができませんでした。
到着するやいなや、船を買い取るという申し出を受けたフィツカラルドは
それで得た金を使って、オペラの劇団を呼び寄せ、
かりそめのオペラ劇場を船上で催します。
風を受けながら立つフィツカラルドが
満足とも無念ともいえない複雑な表情をみせて
幕が閉じるのです。

フィツカラルドにとって、
そして、ヘルツォーク監督にとって重要なのは成果ではなく、
夢を追うこと、冒険することそのものなのでしょう。
成功はしなかった、それでも自分は挑戦したのだという誇りが
ラストのフィツカラルドの表情に
表れているのではないでしょうか。

※ためになる柳下毅一郎氏の解説はこちら





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