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アリラン

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(原題:Arirang 2011年/韓国 100分)
監督・脚本・撮影・編集・出演/キム・ギドク

概要とあらすじ
ほぼ1年に1本のペースで新作を撮り続けていた韓国の鬼才キム・ギドクが、「悲夢」(2008)以来、映画界から遠ざかり、山中の一軒家で隠遁生活を送っていた自らの姿を捉えたセルフドキュメンタリー。カンヌ、ベルリン、ベネチアの世界3大映画祭でそれぞれ受賞を成し遂げたギドク監督が、国内での低い評価とのギャップや、仲間から受けた裏切りについてなど、内に秘めていた心情を吐露。「自らに疑問を投げかける自分」「それに答える自分」「それらを客観的に分析する自分」と3人の自分を演じながら心の内をさらけ出していく。(映画.comより)



キム・キドクの自画撮りオナニー

オダギリ・ジョーが出演した『悲夢』の撮影中に
トラブルによって女優が危険な目に遭ったことにショックを受け、
それ以来、山小屋に籠もる生活を2年間続けていたキム・ギドク監督。
その苦悶に満ちた生活をとらえたのが、この『アリラン』ですが
セルフ・ドキュメンタリーとはいうものの、
劇中で監督本人が言っているように
この作品はドラマであり、ファンタジーなのです。

暖をとるためか、部屋の中にテントを張って眠りをとり
朝になると、トイレがないので
近くの土に穴を掘って野グソをするキム・キドクは
どうみても小汚いおっさんにしか見えません。
飯の食い方もまさにひとりもんの中年男性そのもので
なついた猫までいるのですから、隠遁生活にはもってこいで
オレ、このままでもいいかなーと思う気持ちもわかる状況です。

そんななか、酒に酔ったキム・キドクの前に現れたのが
もうひとりのキム・キドク。
「毎日酒を飲んで何をやってるんだ?
 おまえの映画を待っている人がいるじゃないか?
 なんでもいいから映画を撮れ」

酔っぱらいのキムAを叱咤するもうひとりのキムBですが
これは明らかに、キム・キドクが自問自答するときの
話し相手であり、仮想敵でしょう。
キムBの問いかけはまさに正論で、ポジティブですが
キムAはそれを正論だと認めつつ
「そうは言ってもな〜」と愚痴をこぼし、弱みを見せるのです。
誰しも悩みを抱えているときには
自分Aと自分Bを頭の中で行ったり来たりしているのではないでしょうか。

『悲夢』の撮影中に起きた事故によって
俳優を危険にさらしてまで映画を撮ることに何の意味があるのか、という
実存的な苦悩を認めた上で、
自身が原案・制作した『映画は映画だ』
『ビューティフル』の監督が目先の名誉につられて
自分の元を去っていったことに対する具体的な恨みつらみを
徐々にしゃべり始めます。
当然、もうひとりのキムBは
「人が出会えば別れはあるだろ。人生はそんなもんだ」
またしても正論を言い、
それでもキムAは「そうは言ってもよ〜」と食い下がります。
いやいや、なかなか身につまされるやりとりです。

このようなやりとりが一人の人間のなかで行なわれていることそのものが
苦悩としかいいようのないものですが
この作品はキム・キドクが自分でセッティングしたカメラの前で
自分一人で独白を演じているのですから
さらに別次元のキム・キドクが存在しているはずです。
それが、キムAが号泣するビデオを見ながら笑っているキムCです。
キムCは、ひとり二役のキムAとキムBのやりとりを
さらに俯瞰から眺め、編集するメタな存在です。
とはいえ、キムCもキム・キドクの人格に内包された存在なので
特権的とはいえないでしょう。

A「なんでなんだよ! 馬鹿やろー!」
B「そんなこと言っても始まらないよ。どうすんの?」
C「ははは、なにやってんだよ、おまえら」
という三者の立場の違いは、誰もが苦悩するときに抱え込む
ループ構造のようなもので、
その都度僕たちはそれぞれの役を演じているのかもしれません。
キムA・B・Cのやりとりは、こうやって端から見れば滑稽ですが
A・B・Cのうち一人でもかけると、そこから導き出される答えは
客観性とはほど遠いものになってしまうのではないでしょうか。

エスプレッソ・マシンを自作するほど手先が器用なキム・キドクは
ついに自作の拳銃を作り、自分が囚われている過去を清算します。
このあたりから、キム・キドクの怨念や未練があからさまになり
セルフ・リベンジムービーとでも言いたくなるような展開に
なっていきます。
過去作のポスターや、映画祭で獲得した数々のトロフィーを映し出し
最後はどこかの映画祭の授賞式で
キム・キドクが「アリラン」を朗々と歌うシーンで終わるという展開は
「世界中でこんだけ認められてんのに、
 なんで韓国では認めてくれないんだよ!」と言っているようです。
ルサンチマンの固まりで、栄光を誇示するようなラストシーンは
キムA・B・Cのやりとりとうって変わって普遍性に欠けると思いますが
もし、そのような自分の虚栄心にも自覚的な
キムDの存在を意識してのことだったとしたら
やはり、たいしたものです。

自分が映画を撮れない時期に、
それなら、映画を撮れない自分を撮って映画にするというのは
表現者が選ぶべきまっとうな行為だと思います。
表現とは、常にセルフ・プロパガンダであり、
表現者たるもの、どんなことでも表現を通して世に訴えるべきです。

映画に限らず、表現を批判するときに
「独りよがり」とか「自己満足」「マスターベーション」「オナニー」などの
言葉を用いる人がいますが
このような人は根本的に表現とは何かを理解していません。
すべての表現は「独りよがり」であり、またそうあるべきです。
翻って、「独りよがりではない表現」とはいかなるものでしょうか?
マーケティングをして観客のアンケートをとって、大勢で会議して
話し合った結果にできる作品でしょうか。
それはどんなにがんばっても平均点以上はとれないゴミです。
平均点とは、最大公約数。
つまり、誰にとっても意外性のないつまらない作品です。
「この作品は、独りよがりでつまらない」などと口走る人は
AVのオナニーシーンの魅力を真摯に受け止める必要があります。
AV女優たちはオナニーを見せることで
観客を楽しませているのです。
そこには「素晴らしいオナニー」と「つまらないオナニー」があるだけ
「独りよがりなオナニー」が批判の体をなしていないことは
ご理解いただけるでしょう。

表現の革新性と普遍性は個人の発想の中にあります。
それは決して話し合いでは実現しません。
キムA・B・Cによるキム・キドクの内的対話は
必ずや個人の孤独の中でしか生まれてこないものです。

これ以上ないくらいにわかりやすく「独りよがり」な
キム・キドクのオナニーを観て、気に入るかどうかは
あなた次第です。





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